FC2 Blog Ranking 泣けるor笑えるような素敵な映画・ドラマ・お話をあなたへ 2012年10月
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辛い困難・悩みを抱えるあなたに観てほしい
泣けるor笑えるような素敵な映画・ドラマ・お話をあなたへ
一緒にお弁当を食べてね
2012-10-30-Tue  CATEGORY: 家族・泣ける話
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海の学習という名前で学年全体で泊りがけでの研修のあった5年生。
雨女の私が出かけると必ず雨。
今までの遠足も雨が多かったからそんなにがっかりすることもだんだんなくなってた。
ただ海の学習だから海でボートに乗ったりできるのが楽しみだったのに。

本当なら外のお日様の下で食べられるはずだったお弁当。かわいそうに。
せっかくお母さんが作ってくれてみんなで外で気持ちよく楽しくワイワイ食べたかったのになー。
雨だから研修所の宿泊大部屋でみんな自分のお弁当をとりだした。

あれ?包みの中にお母さん、何か入れてる??

「○○ちゃん、楽しみにしていた海の学習の日がきたね。
たくさんのお友達と一緒にお弁当を食べてね」

メモがでてきた。

3人年子の兄弟の真ん中の私。
いつも子育てに仕事に忙しかったお母さんはそれでも家事の手抜きはなかった。
それでも中子の私はあまり母にはかまってもらえてなかった。
それもあまり気にならなかったし。
お母さん大好きだから。

そこにこのメモ。
読みながら涙がブワーっとでてきた。

どんなおかずがはいってたか記憶にない。
自分の涙でしょっぱかったことは覚えてるのに。
そのメモ、お母さんに見られないように20年たった今でも隠してもってる。

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死なないで…
2012-10-30-Tue  CATEGORY: 家族・泣ける話
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父親が死んでしまったのが中学三年生の時で…それから母親は一人で生計をたてていました。

四人姉弟の真ん中三番目の僕は男一人だった事もありかなり手を妬かせていたと思います。
高校生になってバイトをしても家計を助けるわけでもなく…自分のためだけにつかっていました…。

兄弟がそうだったから違和感がなかったといえばそうなのかも知れないけれど 一人で五人家族を養える訳がなかったのです。
毎日 朝から晩まで働いてた やりくりして学費を払せ…必要な物を買ってもらい何不自由なく育てられて…
それが当たり前だとすら感じていました。

高校入りたての頃に一番上の姉ができちゃった婚をし、もう一人の姉が大学に入り一人暮しをし始め…
残るは自分と妹だけになりました。

そんな時、母親は会社の男性となかよくなり…あまり家に帰って来なくなりました。
妹と二人で食卓を囲むことが増えました。

そんなある日会社で大きなリストラがあり母親もその中の一人になっていました。
一気に生活は苦しくなりました。
母親は出稼ぎにいくと僕らの暮らす街から離れ遠くで働きはじめました。
いつからか家族がバラバラになっていて…それが当たり前になっていました。

高校を卒業して就職をして半年…ぐらい経った時でした。
未だに僕は妹を抱えながら生活費を母親に貰いながら生活していました。
とても新卒の人間の給料では生活が出来なかったからというのもありますが甘えだったのだと今は思います。

会社に電話がはいりました…
母親が倒れたと…
意識不明だと…

夜だったためすぐに向かうことは出来ず翌日むかう事になり会社を暫く休む事にしました。

脳梗塞…くもまっか出血を併発…病院で手術しても助からないかもしれないと言われました。

白い壁の病院が寂しい世界に思えました。
久しぶりに会った母親は意識がなく話しかけても返事がないのだから…。
手術をしたあと病室で母親が意識を取り戻し僕等にむかいこう言いました。

《大丈夫だよ 転んだ訳じゃないから…》

それが最後の言葉でした。

それから容態は急変し翌日医者から告げられたのは植物状態で延命させるかという質問でした…。
姿はそこにあるのに…もう命はないのだと…目を開けないんだと…親を殺してしまいました…

機械を止めてもらいました。
今までごめんなさい…。



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言葉にする勇気
2012-10-30-Tue  CATEGORY: 家族・泣ける話
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今就職活動中で実家に帰れないんだけど、うちのじいちゃんが突然倒れて入院した。

ばあちゃんは雪かきして転んで脚を骨折してそのまま病院暮らしだ。

雪かきくらい手伝いたかったけど、家が離れていることもあって、祖母もこれくらいの雪なら大丈夫と思ったんだろう。
もう5年も入院暮らししてる。

俺の家は転勤族で、中学三年生までは祖母の町からはずっと離れて生活してた。
小さい頃は分け隔て無く話せたんだけど、もの心ついてくるとなんとなく話すときは親しく話せなかった。
そんなこんなで、今は祖母、祖父は入院ということになった。

祖父は1年前くらいは元気で医者にも100歳まで生きるだろう、なんて言われてたんだけど、夏にバスを待っているときに突然倒れてそのまま検査ってことになった。
診断結果はガンだった。
かなり進行していて、余命もあと2年生きられるかどうかだとも言われた。

だから入院はしないでそのまま実家で静かに最後を迎えることにしてたんだけど、また病状が悪化して、入院生活を送ることになった。

脳にも転移して記憶が、あいまいになってきている。
俺は母親と弟と見舞いに行った。祖父の状態は良好で、血色もよかった母親が祖父に話しかけている。

母にとって祖父母は父方の両親なんだけど、よく看護をしてくれてる。
そんな母親を俺は誇りに思ってる。
母親がいつも祖父母に話しかけていて、俺は黙って見守っていることしかできなかった。

本当は大丈夫?とか、がんばって!と話しかけてあげたかった。
母親がてきぱきとなんでもこなしてしまうから俺の役目は余り無いのかもしれないとも少しではあるが、感じていたのかもしれない。
でもこの見舞いをしたら後、就職が落ち着くまでこの祖父母がいる町に帰って来れないかもしれない。
そう考えたら、とても不安とか焦燥とか寂しさとかが沸いてきて、泣きそうになった。何か話しかけてあげなきゃなと思って
「おじいちゃん、がんばってね」と声を掛けてあげて、おじいちゃんが微笑んでうなずいたときは、とても温かい気持ちになれた。

就職を早く決めて、はやく会いにいってあげたいと思うよ。
あとちゃんと言葉にしたいと思う。



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ばあちゃんごめん
2012-10-30-Tue  CATEGORY: 家族・泣ける話
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初めて投稿させていただきます。
このサイトのお話しを読んで、どうしても気持ちを綴りたくなったので、読んでいただければ嬉しいです。

私はばあちゃんが大嫌いでした。
正直、可愛がってもらった記憶もないし、すぐ近所に住んでいるのにすれ違ってもお互い無視する程でした。
たまに家にきても挨拶も話しもしない、ずっとまともに会話した事もありませんでした。

たまに皮肉を言いたげな目で私を見るばあちゃんを、私は
「早くくたばってしまえ」
とまで、思っていました。

でもある日から、ばあちゃんは具合を悪くし入院しました。それからは病台もどんどん悪化し、痴呆も患い、なのに私は一度もお見舞いに行きませんでした。

しかしある晩の事です。
布団の中でなかなか寝付けないでいると、無性に悲しくなってきました。
涙がどんどん溢れ、ばあちゃん死なないでよって、今までの私からは想像できない思いでいっぱいになりました。
胸騒ぎが取れなくて、一刻も早くばあちゃんに会いたくなった。

それからやっと少し寝付け、朝方目を覚ますと親から電話があり、
「ばあちゃん亡くなったよ」
と、告げられました。
でもその時は、昨晩の事が嘘の様に泣けませんでした。
葬儀の日も、ずっと泣けませんでした。

それから数日たって、母親がポツリと言ったのです。

「ばあちゃんね、あんたの事心配しとったよ。あんたが高校卒業してちゃんと仕事あるかとか、ここの病院で働けるように頼んでみるとか…。
痴呆で何もわからんのにね、あんたの事ずっと心配しとったよ」

私はそれを聞いて、部屋で独り泣きました。大きな声をあげて、ずっと泣きじゃくりました。


ばあちゃん、ごめん
私、ばあちゃんに嫌われてる思ってたから、ばあちゃんが嫌いやったんよ
本当はばあちゃんに好きになってほしかったんよ
なんに、変な意地張ってごめん

ばあちゃんと、ちゃんと話したかった
誕生日にプレゼントあげたかった
お見舞い、一度でもいいから行けばよかった

ばあちゃんに自分の声で、
「ありがとう」
言いたかったよ

ごめん、ばあちゃん
嫌いでもいいから、今隣に居てほしかった

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消防士の親父
2012-10-30-Tue  CATEGORY: 家族・泣ける話
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オレの親父は、消防士だった。
いつなにがあってもおかしくない仕事だから、よく母に
「オレに何かあっても、お前らが苦労しないようにはしてる」
ってそう言っていたのを覚えている。

親父はとてもあつい人間で、「情熱」って言葉が大好きだった。

口数の少ない親父が、久しぶりにオレたち息子に口を開いたかと思うと、「情熱だけは持ち続けろ」って「何かに本気になってみろ」ってそればっかりだった。

あの日、緊急要請が入って夜中の2時頃、親父は火事現場に向かっていった。
物音に起きて、部屋のドアを開けて見た親父の背中が、オレが親父を見る最後の機会になった。

親父は、火事で倒壊してきた建物の下敷きになって、病院に運ばれたものの、死んだ。

朝、母からそれを聞いた時、信じられなかった。
いつもみたいに、疲れた顔して帰ってきて、「母さんビール」なんて言う、そう思えて仕方なかった。

でも、灰だらけになって眠る親父の顔を見て、一生目覚めないその顔を見て、それが現実だとわかった。
悲しくて、涙が止まらなかった。

でも、同時に誇らしかった。
親父は灰だらけでボロボロで、もう目覚めなかったけれど、あの日の火事では、全員救出できたそうだった。
最後まで、「人を助けるっていう情熱」を失わなかった。

他人から見ればただの一介の消防士にすぎないだろうけど、オレにとっては、最後まで最高にかっこいい親父だった。
そんな親父の最後が誇らしくて、何故かさらに涙が溢れた。

あれから12年、オレは親父と同じ仕事に就いている。
何年も働いているが、今でも現場に向かう時は、怖い。
それでも、向かうことが出来るのは、オレがこの仕事に「情熱」を持っているからだ。
あの時、最後まで親父が持っていたように。

ありがとう、親父。
あんたの背中を見ていたから今、火の海に飛び込んでいける。
怖くても足を踏み出していける。
本当に、ありがとう。

誰一人死なせはしない。

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シックス・センス
2012-10-30-Tue  CATEGORY: 泣きたい方へ(洋画)
 【あらすじ】


マルコム・クロウは、第一線で活躍する児童心理学者で、多くの子供を心の病から救ってきた。あるとき、マルコムのもとに10年前の少年期にカウンセリングを施したビンセントという青年が現れ、「自分を救ってくれなかった」となじられ銃で撃たれてしまう。そして直後、彼が目の前で自殺したことで、実はビンセントを救えていなかったことを思い知らされる。

1年後、マルコムと彼の妻との間には隔たりが生まれていた。妻は別の男とささやかな愛情を育み、それに反して自分は省みられずに苛立つ日々が続き、自信を失ったマルコムは苦悩と悲しみに暮れていた。そんな中、マルコムはビンセントに良く似た少年、コール・シアーを担当することになる。コールを救うことができれば、ビンセントと、彼を救えなかった自分をも救えるかもしれない。必死になって受け入れて貰おうとするマルコムに、コールはやがて心を開き、隠していた秘密を打ち明ける。コールには、死者が見えてしまう「第六感(霊感)」があり、ずっと怯え続けていたのだ。この能力のために、コールは学校中の生徒や教師からは「化け物」と異端児扱いされ、事情を知らない母親ともすれ違い、うまくいかなくなっていた。

当初は懐疑的だったマルコムも、やがてコールの言葉を受け入れるようになり、死者がコールの前に現れる理由を共に探り始めるようになる。

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【感想・レビュー】


つい昨日久しぶりにこの映画を見ました。

やはりラスト10分間は泣いてしまいます。


主人公の子の母が非常に優しくてうらやましく感じました。

私自身あまり親に優しく接してもらったことがないので、少し悲しい気分になりました。

私も優しい親の元に生まれたかったです。


日々生まれ変わりたいと感じています。


私のことはさておき、この映画のすごいところは気づかぬよう、

ところどころに伏線をはり、最後の最後にびっくりさせられるような展開が待っているということです。

おそらく初見の人はたいてい驚かされるのではないでしょうか。


ホラー要素があるのですが、怖いという感情は一切湧いてきませんので安心してください。


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また次に産まれた時も
2012-10-30-Tue  CATEGORY: 家族・泣ける話
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去年の9月1日父親が他界した。

心臓弁を人工の物に付け替えるという難しい手術だったが、私は初めての手術ではないし、今回も普通に元気になって帰って来るのが当たり前だと信じていたので、会社にいつも通り出勤して、長男にメールで経過を聞くくらいだった。

「術後も安定してる」
「後は目を覚まして麻痺がないか確認するだけ」
そんなメールを何度かやりとりして、ベットに潜り寝ようとした。

それから、ほんの三十分後くらいに電話がきた。
「明日、家族全員あつまってくれ。」

病院まで六時間。
いてもたっても居られず、すぐに荷物をまとめて向かった。

父親のベットの周りには機械だらけで入れる隙間は少しだけ。
可哀想で見てられなくて涙が溢れた。

そして次の日、静かに息を引き取った。
とても綺麗な笑い顔でした。還暦を迎える事も無く、髪を白髪にする事も無く・・・私の花嫁姿も見れないまま・・・

お父さん、また次に産まれた時も、お父さんの娘で居させて下さい。
勘弁してくれなんて言わないでね。

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 【あらすじ】

舞台は1995年の阪神・淡路大震災に始まり、地下鉄サリン事件等の2000年1月1日までの現実と虚構を織り交ぜて物語は進む。

父の通夜の翌朝に起きた大地震後に、借金返済を強いていた伯父を殺害してしまう水原雅也。ふと気付くと、そばには見知らぬ女が…。「新海美冬」と名乗る彼女に犯行を見られたのか、雅也には確信が持てない。やがて、震災が取り持つ奇妙な縁で、美冬と雅也は、まるで共存するように助け合いながら生きて行くことになるのだった。震災後、2人は東京へと震災を忘れるかのように、希望を抱き上京する。しかし彼らの行く先々で、事件と陰謀が蠢いて行くのであった。やがて、ひとりの刑事が、奇妙な偶然に気付き…。

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【感想・レビュー】


このドラマは白夜行の続編という噂があるドラマです。


確かに、原作本は東野圭吾が書いていますし、


出てくる女性の名前や生き方も似ているので納得できると思います。



このドラマは全体的に暗い雰囲気で進行しています。

明るい場面などほとんどありません。

内容的にも非常に残酷で卑劣な内容が多いです。


白夜行の続編ということで興味があるかたは是非見てください。



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クレヨン
2012-10-30-Tue  CATEGORY: 家族・泣ける話
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ミルクのど飴
2012-10-30-Tue  CATEGORY: 家族・泣ける話
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数年前に亡くなった私の祖父は、とても無口な人でした。
よく口を「へ」の字にして、腕を組んで座っていたせいか、親戚の子供たちからは「怖いおじちゃん」と呼ばれ、「おじちゃんがいるなら遊びに行かない」とまで言われてました。
母親もその姉妹も、実の父なのに抱っこしてもらったり、あやして遊んでもらった記憶があまり無いと言っていました。

私は祖父のことを嫌いではなかったけど、遊んでくれるわけでもないのでどちらかというと祖母になついていたのですが、ある日、たまたま家に祖父と私だけしかいなかった時。
一人でもくもくと本を読む私に祖父が
「飴食うか?」
と言ってきました。
「食べる」といってもらった飴はミルク味ののど飴。
のど飴があまり好きじゃなかったけど、無理して1つ食べました。
そしてまた本を読んでいると、祖父が
「飴もっと食うか?」と。
あまりしゃべらない祖父が話しかけてくるのが少し嬉しくて、本当は苦手なのど飴を「おいしい」と言ってたくさんもらいました。
それから祖父は、私をみかけると飴をくれるようになりました。
今思えば、祖父は孫としゃべるきっかけを探していたんでしょうね。

祖父が亡くなる少し前、就職活動中だった私は、父親がいなくて金銭面で祖父にお世話になっていたこともあり、久しぶりに祖父の家に行き、進路を相談してみました。
相談といっても、無口で半寝たきりの祖父にたいしたアドバイスは期待していなかったし、とりあえず報告と思って話したんですが。
でも祖父はしっかりとした口調で、たくさん私と話をしました。
祖父は私のことをなんでも知っていました。
小さい頃からの細かい私の変化を、すべて知っていました。

そして、
「高校の頃は少し信用できなかったけど(少し荒れてたので)、最近は落ち着いてきた。好きにやればいい」
と言ってくれました。
高校時代、不安定だったとはいえ、祖父にその姿を見せたことはなかったはずなのに・・・
びっくりしました。


その後、祖父の容態は徐々に悪化し、私の就職が決まる頃には、病院のベッドに寝たきりになってしまっていました。
威厳のあった祖父が、看護婦に子供のように扱われ、食事が取れないため入れ歯の抜かれた口に小指の先ほど小さな氷のかけらを入れてもらい、もごもごとしているのを見て、とてもショックで、悲しくなりました。
その姿を見たくなく、お見舞いの足も遠のいていきました。

ある日、学校にいた私に母から連絡が入りました。
「おじいちゃんが、もうダメかもしれない。
 アンタの名前を呼んでる」
急いで祖父のもとへかけつけると、母が「おじいちゃん、○○(私の名前)がきたよ!!」と言いました。
薬の副作用で脳がぼんやりしている祖父に
「おじいちゃん、会社が決まったよ!」と報告すると、目をあけて「わかった」というように少し首をふってくれました。
それ以来、祖父の意識はますます朦朧とし、言葉を話すことができなくなりました。

祖父の最後の一言が、私の名前になりました。

亡くなってから、何気なく祖父の部屋にあった海苔の缶をあけると、中にはたくさんの飴が入ってました。
祖父が半寝たきりになる前に、大好きなパチンコに行った帰りに、買ってきたのでしょう。
私が、忙しいことを理由に祖父の家に遊びに行かなくなっても、祖父は飴を買っていたのです。

もっともっと、おじいちゃんと話せばよかった。
いろんな相談をすればよかった。
たくさん後悔がおしよせました。

今でも、飴を食べるときは祖父のことを思います。
月命日にはなるべくお墓参りに行きます、祖父の好きな黒飴とミルクのど飴を持って。

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しょっぱい玉子焼き
2012-10-30-Tue  CATEGORY: 家族・泣ける話
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些細な事ですが…

10年程前、母が何かの病気(今だに知らないのはちょっとおかしいですよね)で手術して入院しました。

私の通っていた中学校の昼食は、給食ではなく弁当持参の学校でした。
毎朝作ってくれていた母が入院したので、その1ヵ月弱の期間、代わりに父が毎朝早くから起きて作ってくれました。

私の兄弟は3姉弟でした。
皆年が近かったので、3人分を作らなくてはいけませんでした。

父は「友達に見られても恥ずかしくない弁当を作るから安心しろ!p(^-^)q」と、テレビの料理番組や本を見ながら研究したり、友人に聞いたりしていたようです。

父は毎日の弁当に、必ずしょっぱい卵焼きを入れてくれていました。

季節は夏だったので、父なりに調べたのであろう
「塩を少し効かせると腐りにくいんや♪(゚∀゚)v」

と、どこから仕入れた知識なのやら、その卵焼きは塩味の効いた不器用な卵焼きでした。

アレから十数年…
母が残業で遅くなったりして夕食の支度がまだの時は、父が例の卵焼きをよく作ってくれます。
その卵焼きは、まだ少ししょっぱくする癖が残っており、食べる度に「あぁ…、オレの親父の味だな」と、ホロリとしてしまいます。

父と呑む晩酌の、愛情の効いた最高の肴です。

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知らなかった事実
2012-10-30-Tue  CATEGORY: 家族・泣ける話
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私には、お母さんが二人いた。
一人は、私に生きるチャンスを与えてくれた。
もう一人は……

私の17歳の誕生日に母が継母であったことを聞かされた。
私を生んでくれたお母さんは、産後すぐに亡くなったそうだ。
生みの親より育ての親…なんていうが、そのときの私は今まで騙されてきたという怒りと、馴れ親しんだ母が急に他人に思え、両親の話もきかず部屋でふてくされて泣いていた。

翌日から母を「おばさん」と呼ぶようになった。
そう呼ぶと母はたまらなく悲しそうな顔をした。
その後、なにかと私に気をつかいだし、必死になる母をよけいに煩わしく感じ、口もきかなくなってしまった。
なんとなく家に居ずらくなったので、夜は出かけるようになった。

それから一ヶ月がたとうとする頃、シカトし続ける私に母が「部屋で読んでね」と手紙を差し出してきた。
が、私はその場でぐしゃぐしゃに丸め、ゴミ箱に捨ててしまった。
それを見ていた父が私をはり倒し、震える声で「母さんはなあ…」と言ったが、私はろくすっぽ聞かずに泣きながら自分の部屋に逃げた。

・・・翌日、母は帰らぬ人となった。
居眠り運転をしていたトラックが赤信号を無視し、母に突っ込んだそうだ。
即死だった。

あまりに急な出来事のため、泣くこともできず、通夜が終わった後も母のそばでぼう然としていた私に、父がボロボロの紙きれを渡し、一言「読め」といった。
昨日の手紙であった。
そこには母らしい温かい字でこう書いてあった。

「千夏ちゃんへ
17年間騙していてごめんなさい。お父さんはもっと早くに言おうとしてたんですが、あなたに嫌われるんじゃないかと思い、あんなに遅くなってしまいました。あなたの気持ち、とてもよくわかる。だってお母さん、偽者だったんだもんね…。でもね、お母さん、あなたのことを本当のお母さんに負けないぐらい愛してるんだよ。千夏が成人しても、旦那さんができてもずーっと…」

泣きながら書いたのか、字のところどころがにじんでいる。
そして最後に震える字でこうあった。
「…だから、、、また「お母さん」って呼んでね。」

私が感じた寂しさを、母は17年も耐えていたのだ。
人の気持ちを考えられなかった私は、一ヶ月もの間、母を苦しめたのだ。
「お母さん…」
一ヶ月ぶりに発したその言葉は、冷たくなった母の耳には届かない。

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最後の文字
2012-10-30-Tue  CATEGORY: 家族・泣ける話
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2年前の8月10日、大好きだったじぃちゃんが亡くなりました。
私は小さい時からよくじぃちゃん家に泊まりに行ってました。泊まりに行くたびにいろんな事を教えてくれました。
本当に優しくてみんなから頼りにされていて絶対にツライと言わない人でした。

じぃちゃんの病名は「肝臓ガン」。
その事は私の親夫婦と叔父夫婦だけにつげられました。
私達孫とじぃちゃんとばぁちゃんは何も知らず3年間は今まで通りの生活をしていたのでした。

しかし、だんだん病気が進行し入退院を繰り返すようになりました。検査入院だと本人や周りに嘘をついていた叔父夫婦や親夫婦もとても辛かったと思います。
じぃちゃんはお見舞いに行くたびに決まって「いつ帰れるんだ」と聞いていました。
早く帰って仕事がしたいと…そんな体じゃなかったのに…お腹が妊婦さんのようにふくれあがりご飯が食べれなくなって息も苦しそうで家に帰ってきても寝てるばかりでした。
そして、ツライはずなのに明るく笑うのです。

そして最後の入院。
その時に私達やばぁちゃんに「今度が最後の入院だ」と言う事がしらされました。
実感がわかず、ただ早く病院に行きたいと思いました。

1週間後じぃちゃんは亡くなりました。
じぃちゃんの最後は親戚みんなにみとられ静かに最後までツライと言わず安らかな顔でじぃちゃんらしく亡くなりました。
じぃちゃんの人柄かお葬式にはたくさんの人が来てくれてみんな泣いて悲しんでくれました。
みんなじぃちゃんに感謝していました。

後日、遺品整理をしていると一冊のノートがでてきました。それはツライ中もうろうとした意識の中で書いたノートでした。
そこには
「もうかんねんした。亡き父母弟が迎えにきた。
もう長くない…(自分が病気なのを)黙っていたのはすべて私を思ってのため、辛かっただろう。
ありがとう。もうあきらめよう。楽しかった。ありがとう…」
と、最後に入院する日に家で書いたらしい…じぃちゃんは全部わかってたんだ…だから最後の入院では家に帰りたいって言わなかったんだ。

もっといっぱい喋ればよかった。
もっと優しくすればよかった。
もっと感謝すればよかった。

でも、いつか言ってた「すぐツライと言うのはほんとはツラくないんだよ」って。その言葉忘れない。
優しい気持ち忘れない。
じぃちゃんみたいにみんなに頼られて誰にでも優しくて明るくてがまん強い人になる。

ありがとう。じぃちゃん…忘れないよ…

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俺の骨
2012-10-30-Tue  CATEGORY: 家族・泣ける話
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姉「コレで一生アンタに借りができちゃった。」

弟「こんなんで借りとかいうなや」

姉「コレで私とアンタは運命共同体ね」

弟「ハハッ ちゃんとリハビリしろよ!」

姉「リハビリしたら歩けるようになるかな・・・」

弟「大丈夫だって!俺の骨は若くて丈夫だもん!!」

姉「傷痛くない?しばらくベルトしめれないよね?ごめんね。
退院したらサスペンダー、プレゼントするね」

弟「おぅ、早く良くなってくれよな」


姉「○○ちゃん、ありがとね」

交通事故で足首の骨が粉砕してしまった姉に俺の尾?骨から骨を移植手術した時、
病室に二人のベットを並べて入院してた時の会話。

移植手術が終わって2ヶ月程経った頃、俺と姉は再手術をする事になった。
医者が言うには骨がくっつくには周りの筋肉や皮膚が健康じゃないとダメらしいんだけど
姉の場合、事故で皮膚も肉も大分えぐられてしまってるらしい。

移植した俺の骨も大部分が化膿して押し出され、かろうじて留まってる骨も腐って死んでしまったらしい。
1度目は骨盤の前の方、左の腸骨から骨を取ったんだけど今度は右の方から骨を取ることになった。

姉「何度もごめんね・・・」

弟「いや、俺の方は有り余ってるから、いいけどさ。
それより、せっかく俺の骨をやってるんだから早く良くなってくれよ!」

姉「○○ちゃんがそういってくれるのは嬉しいけど、またダメかも・・
骨の取られ損になっちゃうかも」

弟「何、言ってんだよ、今度こそ大丈夫だってば!」

姉「昨日、ギプスを外した時に見たんだけど、お婆さんの足みたいだった・・・」

そこまで言って姉は泣き出した。

2度の手術で俺の骨盤の前の出っ張りは両方とも無くなりました。
2度目の手術が終わって1ヶ月ほど経った頃、見舞いに行くと姉が泣いてる母親に
外に連れ出され、事情を聞くと骨の接きがあまり良くないらしい。

やはり、周りの皮膚や筋肉が根こそぎやられてるのが致命的だったみたいで、
これ以上、移植を繰り返しても結果は同じだと・・・

結論から言うと、
結局、姉の右足は膝から下を切断されてしまいました。
今は義足の生活です。
男前な姉なんで、足を切ることに人前に涙を見せることは無かったです。
俺は泣いてしまったけど

姉「結局、無駄になっちゃった・・・ごめんね」

弟「いや、俺の骨が根性無しだったから・・・もっと他の人の骨だったら・・・」

姉「も~やだな~、何でアンタが泣くのよ~!私は○○ちゃんの骨で良かったと思ってるよ」

で、その姉が、当時お世話になった義肢装具士の先生のとこで働いてた方と婚約しました。
4月に式を挙げる予定です。

俺の骨は役にたたず・・・姉の右足は彼に一生支えられていくのだ・・
と思うと正直少し悔しいですが姉が幸せになれそうで良かったと思っています。

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抱っこさせてよ
2012-10-30-Tue  CATEGORY: 家族・泣ける話
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お母さんが亡くなって一週間ちょっとになりました。
まだ現実を受け入れる事が出来ないでいます。

お母さんが亡くなる5日前に私に言った言葉。

「あんたを抱っこした記憶が無いよ。だから今、抱っこさせてよ」

だけど私は照れくさくて話題を変えてしまった。

抱っこさせてあげれば良かった…。
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俺、しあわせになりてえ
2012-10-30-Tue  CATEGORY: 家族・泣ける話
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私たちは、元々親がおらず養護施設で育ちました。
3つ上の兄は中学を出るとすぐに鳶の住み込みで見習いになってその給料はすべて貯金してました。
そのお金で私は私立の高校、そしてさほど一流でもありませんが大学へも行けました。

小さな会社ですが就職も決まり、兄への感謝を込めて温泉へ連れて行きました。
ビールで上機嫌の兄に、
「あんちゃんありがとう、あんちゃんも遊びたかっただろう?」
と言うと

「お前憶えてねえんか?『あんちゃん、俺、しあわせになりてえ』って
小6のとき言ったろ?それで決めたんだ、なーんも辛くなかったど
お前を『しあわせ』にしてやるのが俺の夢だったかんな」

自分ではそんなこと言ったなんて憶えてません。
思春期には、金髪で人相も悪く、クチャクチャと 音をたてて食事する兄を恥ずかしく思い、そんな兄に学校へ行かせてもらうことへの憤りすら感じてました。

その晩は23歳と26歳の兄弟が布団で抱き合って眠りました。
8年前のことですが、ネタじゃないんですよ
本当の話です。

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母さんの誕生日
2012-10-30-Tue  CATEGORY: 家族・泣ける話
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社会人になって初めて迎えた母さんの誕生日。
「いつもありがとう」ってプレゼントを渡したかった。
でも照れくさいし、もし選んだプレゼントが気に入ってもらえないと怖かった。

だから「選ぶのめんどいから」って嘘ついてデパートに連れて行って、
「何でもいいから適当に買えよ」とぶっきらぼうに言うと、
「高いエプロンだけどいい?」とおずおずと見せに来て、値札見たらたった3000円。
「こんな安物かよ」とひったくって後ろ向いて、泣きそうな顔を見られないようにレジに走った。

服でもバックでも、ほかに何でもあるだろ、財布の中に給料全部入れてきたんだぞ!って
涙が出たけど、トイレで急いで顔洗って、そ知らぬ顔で袋を渡した。

そしたら、母さんがうれしそうにそれを抱きしめたのを見て、また泣きそうになった。

いまでも帰るたびにそのエプロンつけて飯作ってくれて、ありがとう。
ほんと美味いよ。世界一だ。
いつも素直になれなくてごめん。
マザコンでもいいよ、母さん大好きだ。

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最後の親孝行に
2012-10-30-Tue  CATEGORY: 家族・泣ける話
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京都市伏見区桂川河川敷で2月1日、無職片桐康晴被告が、認知症の母親を殺害して無理心中を図ったとみられる事件の初公判が19日に行われた。
事件内容は認知症の母親の介護で生活苦に陥り、母と相談の上で殺害したというもの。

片桐被告は母を殺害した後、自分も自殺を図ったが発見され一命を取り留めたとの事。
片桐被告は両親と3人暮らしだったが、95年に父が死亡。その頃から、母に認知症の症状が出始め、一人で介護した。
母は05年4月ごろから昼夜が逆転。徘徊で警察に保護されるなど症状が進行した。

片桐被告は休職してデイケアを利用したが介護負担は軽減せず、9月に退職。
生活保護は、失業給付金などを理由に認められなかった。
介護と両立する仕事は見つからず、12月に失業保険の給付がストップ。
カードローンの借り出しも限度額に達し、デイケア費やアパート代が払えなくなり、06年1月31日に心中を決意した。

「最後の親孝行に」

片桐被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で
「もう生きられへん。此処で終わりやで。」などと言うと、母は
「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。片桐被告が
「すまんな」と謝ると、母は
「こっちに来い」と呼び、片桐被告が母の額にくっつけると、母は
「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。

この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺し、自分も包丁で首を切って自殺を図った。

冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を震わせ、眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。
裁判では検察官が片桐被告が献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていく過程を供述。
殺害時の2人のやりとりや、
「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。

目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。

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 【あらすじ】

19年前(1973年)、大阪で起きた質屋殺し。何人もの容疑者が捜査線上に浮かぶが、決定的な証拠がないまま事件は迷宮入りに。被害者の息子・桐原亮司と容疑者の娘・西本雪穂は、その後別々の人生を歩んでいくかに見えた。だが、二人の周囲には不可解な凶悪犯罪が次々と起きる…。人の心を失った故の悲劇を、叙事詩的スケールで描いている。

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【感想・レビュー】


このドラマは絶対に見ておいて欲しいドラマの一つです。

映画版と小説版もありますが、見るのはドラマと小説版だけでいいです。


内容としては一貫して暗い雰囲気に包まれています。

あまりに悲しいストーリー、悲しい結末が待っています。


人は育つ環境によって人生が変わっていくものなのだろうか。

少なくともこのドラマの主人公たちは複雑な家庭に生まれ、複雑な問題を抱えていました。

浮気をする親、子供を金の材料にする親。最悪でしょ?

このドラマの主人公に比べてら、私の人生はついているのかもしれません。


主人公は男の子と女の子の二人がいるのですが、過去の自分たちの罪を隠すため

お互いに自分を犠牲にしてでも相手を守ろうとします。

簡単に言うと守り合いというべきなのでしょうが。


愛のない家庭で育った子供の悲しい物語です。

一話ごとに物語が大きく動き、見るのをやめられなると思います。

そして何故この世の中は不公平なのだろうかと思わされます。

絶望の中にあるかすかな希望をみつけようとする姿には感動します。

ぜひみてください。

BGMも心に響きます。

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マイ・フレンド・フォーエバー
2012-10-28-Sun  CATEGORY: 泣きたい方へ(洋画)
 【あらすじ】

エリックの家の近くに、ある少年が引っ越してきた。彼の名はデクスターといい、HIVに感染していた。初めは彼を警戒するエリックであったが、次第に打ち解けあい、友情を深め合う。
ある日、エリックとデクスターは「
エイズの特効薬が見つかった」という話を耳にする。彼らはそれを探し求め、二人で旅に出るが…。
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【感想・レビュー】

この映画は二人の少年の物語です。


大人から見ると、子供たちのやっていることを見ると、

つまらないことしてるなー なんて思うことありませんか?

しかしそれは彼らなりに何か意味のあることをしているんですよ^^

そこには二人だけの隠された世界があったりします。

この映画はそんな大切なことを教えてくれます。


悲しい物語なのに、希望をを感じさせるラストシーンは素晴らしいと思いました。

何度見てもこの映画は泣けます。

友情と片付けてしまえばそれまでです。

しかしこの映画にはそれ以上の絆が表現されています。

この映画のところどころに隠されている愛のあるメッセージを理解し、

それを自分の人生にも活用させてください。

そして友達は一生の宝物ということばを忘れないでください。

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キリング・フィールド
2012-10-28-Sun  CATEGORY: 泣きたい方へ(洋画)
 【あらすじ】


アメリカ人ジャーナリストのシドニーと、現地の新聞記者であり通訳でもあるプラン(カンボジア人)はカンボジア内戦を取材している。しかし、カンボジア内戦はポル・ポト率いるクメール・ルージュが優勢となり、アメリカ軍が撤退を開始する。この時、シドニーはプランの一家をアメリカに亡命させようとするが、プランは仕事への使命感から妻子のみをアメリカに逃がし、自分はカンボジアに残ることを決意する。そして、シドニーとプランは取材活動を続けていく。

やがて、カンボジアは完全にクメール・ルージュに支配され、シドニーたちはフランス大使館に避難する。シドニーや他社の記者は、外国人であるから帰国により逃れることができるが、カンボジア人であるプランは逃げることができない。そこで、シドニーらはパスポートを偽造してプランをアメリカに亡命させようと画策する。ところが、粗悪な印画紙に焼き付けたために、偽造パスポートの写真の画像が消えてしまい、プランを逃すことに失敗する。そのためプランはフランス大使館を出ることを余儀なくされ、クメール・ルージュの支配する集団農場へと移送されてしまう。

集団農場では、人は特別な理由もなく銃殺されていく。農場への往復の際に荷馬車に乗っていただけで銃殺され、作業が緩慢という理由だけで銃殺される。また身分を隠していた元教師、元医師たちは、「クメール・ルージュは君たちを許す」という嘘にだまされて、身分を明かしてしまい、その結果、銃殺されていく。

プランは集団農場から脱走を図る。その途中、プランが目にしたのはおびただしい人の白骨だった。プランは脱走に力尽き行き倒れてしまうが、別の集団農場の幹部に助けられ、その幹部の身の回りの世話をすることになる。

一方、シドニーはプランの行方を捜すが一向に消息をつかめない。ピューリッツァー賞を受賞した際に、カンボジアで取材仲間だった記者にプランを見捨てたと非難され、自責の念に駆られていく。

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【感想・レビュー】


戦争はなぜこれほどにまで馬鹿げた行為なのでしょうか。


今現在世界にいたるところで戦争、紛争は起きています。

今の日本では想像できないでしょう。


そんな危険なところで仕事をしている日本人がいるのを知っていますか?

彼らは命がけで私たちにその残虐さ卑劣さをリアルに伝えてくれる。

少し前話題になった戦場のカメラマンだってそうです。

あの人は本当に尊敬できる人間に値します。


この映画はそのようなジャーナリストを描いた作品です。

感動して泣ける作品を望む方は見ないほうが良いかもしれません。

救いのない悲しい映画です。


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クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ
2012-10-28-Sun  CATEGORY: 泣きたい方へ(邦画)
 【あらすじ】

鬼ごっこをしていたかすかべ防衛隊は、町中を駆け回っているうち、一軒の潰れた古い映画館「カスカベ座」を見つけた。

誰もいないはずの劇場では、ひたすら荒野が映し出されているだけの映画が無音で上映されていた。それを見つめるかすかべ防衛隊。だが、トイレに立ったしんのすけが戻ると、風間くん達は姿を消してしまっていた。

夜になり、行方不明になったみんなを心配した野原一家はカスカベ座に入るが、荒野の映像にじっと目を奪われているうちに、気が付けば映画と同じ荒野に立っていた。

荒野を歩いて町を探す野原一家だが、いくら歩いても太陽がずっと真上にあり時間が止まっている事に気付く。その内に線路を見つけ、線路沿いに歩くと西部劇に出てくるような町があった。野原一家は帰り道を聞くため酒場に入るが、そこで人相の悪い連中に因縁をつけられ、乱闘騒ぎになってしまう。ほどなくして保安隊が制止に現れるが、なんとその隊長は風間くんであった。風間くんは保安官(シェリフ)として仕事をしていたのだ。しんのすけは親しげに話しかけるが、いきなり腹を殴られてしまう。風間くんはしんのすけたちのことを忘れているようで、性格も粗暴になっていた。しんのすけは風間くんに春日部のことを必死に思い出させるが、風間くんはそれに腹を立て野原一家を捕らえるよう保安隊に指示した。

野原一家は逃げる途中、この町「ジャスティスシティ」の知事ジャスティスに仕えているつばきという少女に救われた。つばきもこの場所が何なのかはわからないが、「この世界に来た人間は、元の世界にいた記憶を忘れていく」という事実を伝え「帰りたいという気持ちが強いのなら、その気持ちを忘れずに持ち続けてください」と一家にアドバイスする。

やがてマイクという男性が保安隊に連行され、暴行を受けているところを目撃する。野原一家は保安隊の目を盗んでマイクを解放し、事情説明を求める。どうやらマイクも、野原一家と同じく映画館で映像を見ているうちにこの町に来た春日部の住人らしい。マイクは立入禁止区域に指定されている場所に何かがあると思い侵入したらしいのだが、何もなかった上に保安隊に見つかり厳しい体罰を受けたという。しかもマイクつばきの言うとおり、自分の職業や家族を忘却していた。そして野原一家もまた、いずれはそうなるだろうと危惧するのだった。

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【感想・レビュー】


泣ける映画というより感動できるといったほう正しいのかもしれませんが、

私は泣けましたのでこのカテゴリーで紹介させていただきます。


しんちゃんが映画の世界に入り、そこでいろいろな人たちと絆を作るのですが、

その中に、ななこおねーさんを忘れるほどしんちゃんが好きになった人がいます。

そう、恋です。


この恋の結末はどうなるのでしょう?


これ以上はネタバレになるので言えませんがとても素敵だと思いました。



いつまでも一緒にいられると思っていた人がずっと一緒にはいることができない。

そんな大切なことを教えてくれる映画でした。


エンディングの曲もとてもよく、涙を誘ってくるでしょう。

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コブクロ/million films
2012-10-27-Sat  CATEGORY: 心に響く音楽
 
【million films】


CMでもよく流されている有名な曲です。

写真の大切さがよくわかります。
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kiss/ヨジョイニカ(英訳:Because I`m a girl)
2012-10-27-Sat  CATEGORY: 泣きたい方へ(洋画)
 今回は泣けるPVを紹介します。

映画でなくてすいません。

韓国の歌手のPVです。

今現在、国家間の対立は続いていますがそのようなことは抜きにして見ていただきたいです。

【ヨジョイニカ(英訳:Because I`m a girl)】

とてもPVが泣けます。

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レナードの朝
2012-10-27-Sat  CATEGORY: 泣きたい方へ(洋画)
 【あらすじ】

1969年、ブロンクス。慢性神経病患者専門のベインブリッジ病院に赴任してきたマルコム・セイヤー(ロビン・ウィリアムズ)は無口で風変わりな男だったが、患者に対する態度は真剣で、彼らが話すことも動くこともできないものの、まだ反射神経だけは残っていることを発見すると、訓練によって患者たちに生気を取り戻すことに成功し、その熱意は治療をあきらめかけていた看護婦のエレノア(ジュリー・カブナー)の心をさえ動かしていった。そんなセイヤーの患者の中でも最も重症なのがレナード・ロウ(ロバート・デ・ニーロ)だった。彼は11歳の時発病し、30年前にこの病院に入院して以来、意識だけはあるものの半昏睡状態で寝たきりの生活なのである。何とか彼を救おうとしたセイヤーはまだ公式に認められていないパーキンソン氏病患者用のLドーパを使ってレナードの機能回復を試みる。そしてある朝、ついにレナードはめざめを迎えた。ベッドから起き上がり、セイヤーに連れられて30年ぶりに街に出たレナードにとって見るものすべてが驚きだった。その効果に意を強くしたセイヤーは上司に他の患者にも新薬を使うことを申し出て、病院のスタッフの協力によって投薬が始まった。
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【感想・レビュー】

この映画は実話です。

今生きていることがいかに素晴らしく、奇跡的なことだということがわかります。

この映画に登場する精神科医や、患者の気持ちを考えると泣けてきます。


体は生きていても、意識がなかったら本当に生きていると言えるのか。

そんなことも感じました。

私は生きていると思います。

私の祖父は数年前亡くなりました。

寝たきり状態でしたが、やはり家族の私はしっかりと祖父の生命を感じました。

だれかが生きていると感じるのであれば、たとえ脳死であってもその人は

生きていると言っても良いのではないでしょうか。

精神論でしか意見を言えない私ですが、このように思います。


命のことに関しては、あきらめないことが大切ですよ。




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ライフ・イズ・ビューティフル
2012-10-27-Sat  CATEGORY: 泣きたい方へ(洋画)
 【あらすじ】

第二次世界大戦前夜の1939年ユダヤ系イタリア人のグイドは、叔父を頼りに友人とともに北イタリアの田舎町にやってきた。陽気な性格の彼は、小学校の教師ドーラと駆落ち同然で結婚して1児をもうける。

やがて戦時色は次第に濃くなり、北イタリアに駐留してきたナチス・ドイツによって、3人は強制収容所に送られてしまう。

母と引き離され不安がる息子に対しグイドは嘘をつく。「これはゲームなんだ。泣いたり、ママに会いたがったりしたら減点。いい子にしていれば点数がもらえて、1000点たまったら勝ち。勝ったら、本物の戦車に乗っておうちに帰れるんだ」。
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【感想・レビュー】

この映画も泣けます。

みなさんもユダヤ人虐殺の歴史についてはご存知ですよね?

この映画はまさにその時代、ムッソリーニ政権時代のお話です。

ドイツはヒトラー、イタリアはムッソリーニという時代です。

途中まではフワフワとした恋愛的雰囲気で物語が進行するのですが、

後半からガラッと雰囲気が変わります。


嘘というのは時には人を救います。

この映画はまさに人を救う嘘がテーマの一つになっています。

子供に残酷な事実を教えるのはあまりよくないのかもしれません。


ラストでは奇跡が起こります。

ユーモアがところどころにちりばめられており、

視聴者を飽きさせません。


泣ける映画として有名なだけはある映画です。


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サンタさんのおくすり
2012-10-27-Sat  CATEGORY: 家族・泣ける話
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6歳の娘がクリスマスの数日前から欲しいものを手紙に書いて窓際に置いておいたから、
早速何が欲しいのかなぁと夫とキティちゃんの便箋を破らないようにして手紙を覗いてみたら、
こう書いてあった。

「サンタさんへ おとうさんのガンがなおるくすりをください!おねがいします」

夫と顔を見合わせて苦笑いしたけれど、私だんだん悲しくなって少しメソメソしてしちゃったよw
昨日の夜、娘が眠ったあと、夫は娘が好きなプリキュアのキャラクター人形と「ガンがなおるおくすり」と普通の粉薬の袋に書いたものを置いておいた。

朝、娘が起きるとプリキュアの人形もだけれど、それ以上に薬を喜んで「ギャーっ!」って嬉しい叫びを上げてた。

早速朝食を食べる夫の元にどたばたと行って
「ねえ!サンタさんからお父さんのガンが治る薬貰ったの!早く飲んでみて!」
っていって、夫に薬を飲ませた。

夫が
「お! 体の調子が、だんだんと良くなってきたみたいだ」
と言うと娘が、
「ああ! 良かった〜。これでお父さんとまた、山にハイキングに行ったり、動物園に行ったり、運動会に参加したりできるね〜」
……っていうと夫がだんだんと顔を悲しく歪めて、それから声を押し殺すようにして「ぐっ、ぐうっ」って泣き始めた。

私も貰い泣きしそうになったけれどなんとか泣かないように鍋の味噌汁をオタマで掬って無理やり飲み込んで態勢を整えた。
夫は娘には「薬の効き目で涙が出てるんだ」と言い訳をしてた。

その後、娘が近所の子に家にプリキュアの人形を持って遊びに行った後、夫が
「来年はお前がサンタさんだな……。しっかり頼むぞ」
と言ったので、つい私の涙腺が緩んで、わあわあ泣き続けた。

お椀の味噌汁に涙がいくつも混ざった。

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一人娘の結婚式
2012-10-27-Sat  CATEGORY: 家族・泣ける話
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土曜日、一人娘の結婚式だったんさ。

当時俺25歳、嫁33歳、娘13歳。
まぁ、要するに嫁の連れ子だったんだけど。
娘も大きかったから、多少ギクシャクしながらも数年過ぎた。

子供はあえてつくらなかった。
収入の問題もあったけど、娘の気持ちを考えたら、
子供は娘1人いればいいって事になった。

突然嫁が交通事故で逝った。
娘17の時。
突然2人きりになった&現実味がなくて二人して呆然。
これからどうしようと思った。

生活の面では収入も安定してたし、娘も家事の一通りは出来た。
何の問題もないはずだったけど、嫁側親戚が騒ぎ立てた。

そらそーか。
血の繋がらない29の男と17の女。
ある意味カップルでもおかしくない歳の差だもんな。

「あなたはまだ若いんだから」とか、
「再婚するにも子供がいちゃ・・・しかも自分の子供じゃないのに・・・」
とか、散々言われた。

でも、俺は間違いなく娘は俺の娘だと思ってた。
何よりも、嫁のたった一人の忘れ形見だ。
俺が育てて行く以外の選択肢は全く頭になかった。

そんな親戚の騒ぎは右から左に流した。
娘も「今更こんな足の臭いオッサンとどーにかなるかw」と笑ってた。
当たり前の様に言う娘の気持ちが嬉しかった。

やっぱり影であらぬ噂を立てられた事もあった。
三者懇談や進路面談で学校に行くと、必ず教師に変な顔をされた。

部活で遅くなった娘を迎えに行って「お宅の生徒が円光をしている」と
近隣住民から学校に通報された事もある。

それでも2人で暮らして来た。
再婚なんか考えた事もなかった。
それくらい娘には穏やかな、幸せな時間を与えてもらってた。

娘に話があると言われた。
「結婚したい人がいる。」と。
娘は25になってた。

俺が嫁と結婚したのと同じ歳。
正直複雑な心境だった。

次の日曜に相手の男に会った。
娘を見る目が優しかった。

こいつなら大丈夫だと思った。
安心した。
諦めもついた。(笑)

あっという間に披露宴だ。

「お母さんが亡くなった時、本当にどうしようかと思った。
お父さんはまだ若かったから、私がいたら絶対に足枷になると思ってた。
だから、これからも一緒に暮らすのが当たり前みたいな態度でいてくれたのが
本当に本当に嬉しかった。

私のお父さんは、お父さんだけです。
今まで本当にありがとう。
お母さんが亡くなってからも、今までずっと幸せな子のままでいられたのは
お父さんがお父さんだったからです。」

娘がしゃくりあげながら読む花嫁からの手紙を聞いてたら
バージンロード一緒に歩いてた時点で必死で堪えてた涙がどっと溢れた。

娘が出て行く前に、箪笥の引き出し一つ一つに
「ぱんつ」「しゃつ」「とれーなー」「くつした」とか書いた紙をはっつけていった。

そこまで俺自分で何も出来ない父親かよwww
しかも平仮名www

近いうち娘に良く似た孫とか出来ちゃうんだろうな。
そんで「俺まだじーちゃんとかいう歳じゃねーし」とか言っちゃうんだろうな。

俺、間違ってなかった。
大変だったけど、父親って立場、選んでよかった。

嫁と結婚して良かった。
娘の父親になって良かった。

1人になって部屋は何か広くなっちゃったけど。
微妙な抜け殻感は否めないけど。
今度はいつか生まれて来る孫の為に頑張ってみようかな。

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母のお弁当
2012-10-27-Sat  CATEGORY: 家族・泣ける話
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私の母は昔から体が弱くて、それが理由かは知らないが、母の作る弁当はお世辞にも華やかとは言えない質素で見映えの悪い物ばかりだった。 

友達に見られるのが恥ずかしくて、毎日食堂へ行き、お弁当はゴミ箱へ捨てていた。 
ある朝母が嬉しそうに「今日は〇〇の大好きな海老入れといたよ」と私に言ってきた。 

私は生返事でそのまま高校へ行き、こっそり中身を確認した。 
すると確に海老が入っていたが殻剥きもめちゃくちゃだし、彩りも悪いし、とても食べられなかった。 

家に帰ると母は私に「今日の弁当美味しかった?」としつこく尋ねてきた。 
私はその時イライラしていたし、いつもの母の弁当に対する鬱憤も溜っていたので
「うるさいな!あんな汚い弁当捨てたよ!もう作らなくていいから」とつい、きつく言ってしまった。 

母は悲しそうに「気付かなくてごめんね…」と言いそれから弁当を作らなくなった。 
それから半年後、母は死んだ。私の知らない病気だった。

母の遺品を整理していたら、日記が出てきた。 
中を見ると弁当のことばかり書いていた。 

「手の震えが止まらず上手く卵が焼けない」 日記はあの日で終わっていた。

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